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♪♪Sen~ora 奥様♪♪

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terraza
中央公園 Zocalo
 世界中の時計は同じ時を刻む。 だが、時の流れは世界中同じではない。
 人類はある時、天体の動きに規則性があることを知り、それを時をはかる手段とし、時計という道具を発明した。 然しそれは、あくまで道具なのだ。 にも拘らずいつしか人々、特に「近代人」を自認する人々は、その道具に脅迫されるようになる。
 メキシコでは、町中で一番緑の多い一角に、ソカロと呼ぶ区画を設ける。 そこはどの町も申し合わせたように、公園を中にして周りに役所、教会、商店街を配置する。 そして、その公園に行くと、私はいつも決まって、時とは刻むものではなく、漂うものだと感じさせられる。
limpiazapatos
公園の緑を借景にしたレストランでは、一杯のカクテルで2時間でも3時間でも時を過ごす人は少なくない。 靴を磨くのも、磨く人、磨いてもらう人と役割分担すれば、時は二人分ゆっくりと流れる。

agua  国際都市の醜悪さに犯された首都メキシコシティーを除き、どの町のソカロにも週末や祭日に限らず「時の流れ」に身を任せる人々が集まる。
 この人たちの時の概念には、「秒」とか「分」とか「時間」とかいうデジタルな単位はない。 あるのは、夜が明け、陽が沈むまでの「1日」というアナログな単位だけだ。
 ここ、メキシコシティーの南郊外にあるクエルナバカ市のソカロも、週日だというのに結構な数の人々が「時間浴」を楽しんでいる。
 氷菓子や清涼飲料水を手押し車に載せた夫婦からも、土産物や雑誌を並べた屋台の女将からも、何かを売ろうという気迫は全く感じられない。
 ただ、そこに置いて時が経つに任せているだけだ、たまたま通りかかった人が求めれば、それはそれでよし、誰も来なくても、ここに身を置いて時が流れていけばそれでいいのだろう。
 屋台を覗くビジネスマンが腰にしたケータイも、この緑の中を通過する間は、彼を呼んだりはしないのだろう。

 見るからに安っぽい印刷ものの絵が並べられ、時折眺めていく人もいる。 だが売り手は一体どこにいるのか、遂にその姿を見かけなかった。 近くの木陰で眠り込んでいるのだろうか。
 木陰でチェスを楽しむ人たち、顔つきは場違いに真剣だが、実は彼等こそ、この広場で誰よりも時を忘れた人達だろう。 通りかかった流しのギタリストもつり込まれて勝負に加わった。
 となりの木陰では、子供達がテレビゲームでチェスに熱中している。 暗く電子音のつんざくゲームセンターから所を変えたマシンも、妙にまわりに溶け込んで見える。
pinturas ajedrez tvgame

burbuja  ふたの空いたゴミ箱の脇で、日ながシャボン玉を吹く人。
 始め、この人は風船売りで、客よせせに吹いているのだと思ったが、風船売りは別に居て、この人はひたすらシャボン玉を吹いているのだった。
 年格好を見るまでもなく、自分が遊んでいるのでは絶対ない。
 石鹸水とストローを売っているのだろうか。 それも見当たらない。 じゃあ、一体何のために、、、、
 世の中のことには全て目的がなければならない、目的もなく何かをするのは愚かなことだ、こんな考え方をするようになってしまった自分の方がおかしいに違いない。
 そう思うと、何の目的もなく、ひたすらシャボン玉を吹く、この人こそ、この公園に憩う人々の典型に見えて来た。
 フワフワと流れていくシャボン玉、御覧、時はこうして流れて行くんだよと教えてくれているようだ。

 コルテス宮殿、革命の指導者モレロス像をバックにした広場で、ダンスが始まった。 踊っているのは殆どが老人、曲は彼等が若かりし頃のチャチャチャなど、男性の衣装は植民地時代のもの、、、と、全く時代考証が混乱している。
 だが、御当人達は勿論、三々五々集まった見物人達もいっこうに気にしていない。 彼等にとって、時は必ずしも一方向に整然と流れるものではないのだろう。

 マリアッチのプレーヤー達が手持ち無沙汰に集まっている。 彼等が演奏を始めるにはまだ陽が高い。 何をしているのかと聞けば、パトロン達が来て交渉が成立し、彼等を自宅やレストランで開かれるパーティーに連れて行くのを待っているのだという。
 日本の流しは自ら客を求めて歩くが、ここの楽士達は客任せ、一晩棒に振ることもあるのだろうが、気に介しているようには見えない。

 公園の中央には決まって舞台が有り、音楽が演奏される。 今しも白衣のブラスバンドが演奏を始めた。
 教会の鐘は鳴り、ラジカセからは老人達のダンスのバックミュージックが響く、通りからは車のクラクションが聞こえてくる。 もう音のカオスだ。
 舞台を見上げる人は誰一人居ない、でもそれでいいのだろう、これらの音が時の流れを撹拌しているのだ。
baile mariaches orchestra

Panorama  歩き疲れた私は、カテドラルの中が望めるレストランのテラスに席をとった。
 ようやく陽が傾き、辺りを染める色が、ゆっくりと変わっていく。
 ここでも時は止まっているようだ、飲み物のオーダーをとったあとは、メインの食事、食後、いずれもこちらが合図するまでは決して、テーブルにやって来ない。
 わざとらしくグラスの水を取り替えたり、灰皿の掃除に来たりはしない。 ここでは、食事と共に、客に時の流れをもサービスするのだ。

futbol  陽が暮れて再び公園に戻ると、一画のレストランの外に人だまりが出来ている。 一様に、開け放された窓の中を覗き込んでいるので、なにか事件でもあったのかと思った。
 だが人々の目は、店の中のあちこちに有るテレビに吸い付いている。 有料テレビでアルゼンチンとメキシコのサッカーを中継しているのだ。 だが店の外からは画面が小さくてよく見えない。 外から、今ゴールしたのは誰だとか、あと何分だとか声がかかると、中から返事が返ってくる。
 ふと、彼等の上に、中学生の頃、駅前広場の白黒テレビで、力道山のプロレスを手に汗握って見ていた自分がダブって見えた。
 日本で流れていた「時」に、再びここで出会った思いだ。

 今という「時」は二度と戻って来ない、これは日本でもメキシコでも同じだ。
 だが、だから一刻も無駄にしてはいけないという日本の人々と、だから今という「時」を大事にしようというメキシコの人々、どちらが人間本来の姿なのだろうか。
 時に追われ続けて成長して来た日本が、今直面している問題の答えのひとつがここにありはしないだろうか。


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