大きなトラックに混ざって老人と孫の少年がロバに売り荷を引かせてやってくる。
母と少女が幼い妹を売り荷の上に乗せて手押し車でやってくる。
トラックの大量の積み荷を見ていると、やがては彼等の姿も見られなくなるのだろうかと心細くなる。
いろんなことが遅ればせながら効率化、近代化されていくのを見るにつけ、メキシコよお前もか、何故急ぐのかと言いたくなる。
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色鮮やかな野菜にも果物にも打ち傷がある、粒も揃ってない。
だが、そんなことは評価の対象ではなく、客の関心は「いつが食べ頃か」だけだ、神の下される物はそれが当たり前だからだ。
日本のトマトでは忘れられて久しいアオクサイ味と薫りに接する都度、戦後の食糧難時代、我が家の家庭菜園で採れた太陽に熱せられたトマトの記憶が蘇る。
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市場の中にはあちこちにレストランがある、荷を運び終えた人、店の準備が一段落した人、買い出しに来た近隣の住民達が一緒になって食事を楽しむ。
食べるという本能的行為を通じて、売り手も買い手も同じ社会で生きていることを確認しあっているようにも見える。
音楽付きの食事は高級レストランの専売ではない、社会に階層はあっても食事の楽しみ方に階層はない。
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