生い立ち:
フェルディナンド・マキシミリアン・ヨーゼフは1,832年、6世紀余に亘り欧州の貴族のトップとして栄えたハプスブルグ家の次男として生まれた。
兄フランツ・ヨーゼフとは違って明朗闊達、おのずから威望が有り、人からこよなく愛され親しまれた。 君主の器量からいえば、むしろ鈍重な兄よりも数段まさっていたと言われていた。
そして、ハプスブルグ兄弟の間でオーストリアの帝位継承に関して軋轢があったことが、この悲劇の遠因となったのである。
フランツ・ヨーゼフは嫡子ルドルフに後を継がせるために、弟マキシミリアンには帝位を断念させようとしていた。
兄は、なにかと弟を無視したり遠ざけようとする傾向が有り、それを察知した感受性の高い弟はウィーンを離れ、アドリア海に臨むトリエスト近郊の風光明美なミラマーレ城に居を定めた。
航海が性にあっていたマックスは、海上生活を送ることが多かったが、いつかはオーストリア皇帝になりたいとの夢を捨てはしなかった。
その頃メキシコでは:
スペインから独立はしたものの、それは単にスペイン人からこの地で生まれた支配層に権力が移行したに過ぎず、下層で喘ぐ人々にとって大きな変化はなかった。
国土の半分を所有する教会をはじめとする旧体制と自由主義者の闘争が始まり、ベニート・ホアレス(冒頭写真)が史上唯一の先住民出身大統領に選出される迄になった。
だが、長い独立革命闘争で国力は疲弊しきっており、米墨戦争に破れた後を受け大統領に就任したホアレスは英、西、仏に対する債務の2年凍結を宣言せざるをえなかった。
三国は艦隊を組んで干渉に乗り出した、折衝の結果英、西は艦隊を引き返したがフランスのナポレオン三世だけは、この機に乗じた領土的野心を捨てなかった。
一旦はメキシコ軍の抵抗に遭ってプエブラでの戦いに破れるが、一年後態勢を立て直して本格的な干渉に乗り出し、首都を制圧した。
ホアレス大統領の勢力は北部に逃れるが、各地のゲリラ戦で保守陣営を悩ませていた。
夢と希望
この頃マキシミリアンは、兄から北イタリーのロンバルディー国王に任命され、ブルボン家の血をひくベルギーのプリンセス、カルロタと幸せな結婚生活を送っていたが、兄からの干渉で気を腐らせていた。
ちょうどそんな時ナポレオンからメキシコ皇帝への誘いが届いた。
聡明なマキシミリアンが、全く躊躇しなかったとは考えられないが、遠く大西洋の彼方の新大陸のこと、不安よりは希望の方が彼をして彼の地へ向かわせたのである。
希望に胸を膨らませた二人を載せた船ノバラ号は、1,864年5月28日ベラクルスの港に入った。
メキシコにも爵位を持つものは多く居たが、初めて目の当たりにするヨーロッパの、しかもハプスブルグ家のプリンス夫妻の教養の高さ、洗練された立ち居振る舞いは、彼等をして仰天させてしまった。
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若きプリンス夫妻
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歓呼に送られて船出
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ボルダ邸(クエルナバカ)の散策
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美しいカルロタ
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現実:
メキシコに着くとほどなく、聞かされていた話と現実は大きく違うことが分かる。
ナポレオンからの要請を受諾する条件の一つとして出していた「国民の同意が有ること」を示す為に行われた国民投票とは形ばかりのもので、保守と革新の戦いはそこかしこで沸騰しているのだ。
もとより大いに失望したが、当時の貴族というものは、生まれた時から民の上に立つよう教育されており、平民同志の互選で任命された現代の指導者のように、内閣を投げ出すというような発想はなかった。
あく迄、自らの理想とする方向へ、メキシコの民を導くという決意を新たにするのみであった。
もともとリベラルな思想の持ち主のマキシミリアンは、彼を迎え入れた保守派よりも、ホアレスの政策の方に共感するところが多かった。
そして、自由主義陣営の穏健派を閣僚に加えたり、保守派の反対で宙に浮いていたホアレスの改革案の承認迄し、保守派を当惑させた。
ホアレスに対しては、しきりと協力を要請したが、もとより断られた。 ホアレスの敵は皇帝個人ではなく彼を祭り上げている保守陣営なのだから。
だがホアレスをして強気にさせたには、他にも訳が有った。
欧州ではビスマルクがナポレオンへの圧力を高め、アメリカでは南北戦争が終わりリンカーンからの支援が期待できたからだ。
時として、歴史とはむごいものだ、時代の趨勢は二人の夢をやぶる。
それにしても、これからの二人の運命は、余りにもむごすぎる。